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能楽師 塩津圭介さんインタビュー(前編)

能を通して読み解く、未知の世界との関わり方

記事作成: 松村莉奈   記事編集: 田中嘉 | Innovation |2013.09.03

日本の伝統芸能―「能」。演者の表情は一斉見せず、たおやかな動きと緩やかな節、形相豊かな面で感情を表す伝統芸は、舞台上に広がる異世界とも思える。古(いにしえ)の時と今を結ぶものとは何だろう。塩津さんは「誰にも負けないものを手に入れてください。プロ意識をもって生きれば、能の見え方は変わってくる。」と言います。能は自分の生き方と向き合う、自由で新しい芸術なのです。

能楽師

塩津 圭介(しおつ けいすけ)

1984年10月27日、東京に生まれ、東京育ち。 喜多流能楽師の家系に生れ、三歳で初舞台を踏む。若者能をはじめ、能の魅力を世代を超えて伝達する試みに力を注ぐ。

学生インタビュアー

松村 莉奈(まつむら りな)

学習院大学法学部政治学科在学中。人の目をみて話せないというコンプレックスから、大学ではアナウンスを日夜練習。言葉を聞くことも話すことも考えることも好き。

塩津1

みんな違ってみんないい

―「今回は能を通してこれからの時代に必要な力を探っていきたいと思っています。
まず、能そのものについてもっと知りたいのですが…能はどんなモノなのでしょう?」

塩津:みなさん、あまり能を観る機会はないですよね。能は見ていて動きがあまりない、そもそも何をしゃべっているかもわからない。そして解釈が難しいので、つまらないと思われることが多いかと思います。でも、実はそのわりきれない、もやもやした感覚こそが能の魅力だと思うのです。

これは100%僕の意見なのですが…
能って、どこからでもアクセスできる空中に浮いている球体みたいなものだと僕は思います。

塩津2

―「空中に浮いている球体…それは、どのようなものなのでしょう?」

塩津:絶対誰かと同じ角度で入射することがない=絶対誰かと同じ見方はできないということです。
現代社会はほとんどの人が同じ場所から入射して出射するようにできていて、人々にウケた形を大量生産して薄利多売するものだと思います。例えば、ほとんどの場合、現代のエンターテイメントというものはオチとか泣き所が決まっていますよね。見終わった後に感情が共有されるから、安心する。それが現代のエンターテイメントの形だと思います。一方、能とはそういうものの対極にあるんじゃないかと僕は思っているんです。

―「塩津さんから見て、現代のエンターテイメントと能はどのような点で対極だと思いますか?」

塩津:お能というものは、見る人の数だけ答えがあるものだと僕は思っています。例えばここにいる5人がお能を一緒に見たら、5人分の能に対するイメージが出来上がるはずです。そういう、答えが一つにまとまらないものだからこそ「むずかしい」「わからない」と言われてしまうんですけど…。
それは先ほどの、「ほとんどの人が同じ見方を共有し、同じ反応をするように仕組まれている」現代のエンターテイメントとは決定的に異なると思います。

―「確かに、映画やドラマの宣伝文句を見ても、泣ける映画や感動を届ける名作、といった文字が目につきますね。」

塩津:そうですね。でも能はその真逆を行く存在だと僕は思っています。
能を創り上げたとされる世阿弥、最期は佐渡島に流刑された、と言われていますが、「みんな解釈の方向、つまりは向いている方向がちがっていい」という能の考え方を導いたことが、世の中を統治したかった人々にとって不都合だったのでは?という説に僕は賛同しています。
これほど法律、規律によって統一化された現代日本において、むしろこの能の考え方が必要な時代がきたのではないでしょうか?

塩津3

普遍的であるために、我を消す稽古

―「見ている人が色々な解釈をできるように、この浮いている球体を維持すること=能を演じることは難しいかと思うのですが…どういったことを意識していますか?」

塩津: …私は、「いかに雑念を消して集中するか」ということを意識しています。僕がわが子を失った母親の役を演じることもあります。しかし子を持った経験もない、ましてや男の僕にその気持ちを本当の意味で理解することは不可能ですよね?ではどうするか?そこに浅はかな我がはいらないように師匠から弟子へと伝えられる「型」つまり形のみを意識して可能な限りをそのまま継承することを意識する。色を付けていない塗り絵の下絵を描くとでもいうのかな?ここに球体を保つ方法があるのだと思います。

―「我を消すということは、ここは見せ場だと思っても、その演技に自分の気持ちを込めてはいけないということなのでしょうか?」

塩津:見せ場を見せない、ということはとても難しいですね。でも自分で役についてわかったように「演技」してしまうと、どんどんいやらしくなっていってしまうんです。
僕らは「演技」という言葉も使いません。そこが台詞による場面展開でも「舞う」と言います。どうしても集中でいないときには、稽古で師匠に習ったことを一つずつ思い出して、その場面、場面、そのまま舞うようにしています。それがベストなのだと少なくとも現時点の僕は思っています。

塩津4

屋久杉をどう、見ますか

―「そういう「舞」をしていく中で、観客に求められるのは、「直接表現されないものを頭に描くこと」=「想像力」だと思います。僕たちの世代はたくさんの情報を浴びて生きてきました。
こういう想像力が乏しいと言われてしまうような現代において、能を広めていくのは一つの挑戦かと思いますが、どうお考えですか?」

塩津:僕は、能のことを「屋久杉」みたいなものだと思っています。綿々と歴史が紡がれてきて現代に息づいている大きな存在ですね。屋久杉を「こう見て」ほしいとか、ないですよね。能もそういう風に思ってもらえればいいかなと思います。

―「屋久杉≒能ということですか?」

塩津:はい。資本主義・大衆目線の歌舞伎と違って、能は神にささげるものというルーツがあります。その上でパトロンとなる貴族が出てきて、その人のために一日一度の公演をしてきた。歴史から見ても一対一で向き合う感覚がとても強いものなんです。屋久杉の前に立った時、自分と大きな杉、この一対一の立ち位置が心に迫ると思うんです。
だから僕は能も、若い人に何かしらの形で響くものがあると信じています。

塩津5

「プロ意識をもって、生きろ」

―「能と1対1で向き合った時、20代の若者が能をより理解するためにはどうしたらいいのでしょうか?」

塩津:僕は「なんらかのプロ意識を持って生きて欲しい」と若い人に伝えたいですね。
俺は、私はこれに関しては誰にも負けない。という感覚があれば、その物差しを使って能にアクセスして楽しむことができると思います。
例えば服が大好きな人がいたとして、このことに関して自分はプロ意識をもっている。そうしたら能を鑑賞しているときに「あの装束(しょうぞく=衣装のこと)はどうやって作っているのかな。どういうものがモデルになっているのかな。」というように、自分の感覚に近づけてみることができるでしょう?
その場で能の物差しを即興で作っても、ほんの1cmになるかならないかのものしか作れないですよ。でも人間は何かしら自信がある自分の物差しを持っていて、その長さが10mくらいのものだとしたら、能に当てはめると…あぁ、俺の物差し千個分、1万メートルくらいか…とかそういう図り方ができると思うんです。1cmで1万メートルだと、、、???みたいなこと。

―「もし私に当てはめれば、インタビュアーとして能を作った人に何をインタビューしたいだろう、とかそういう風に考えることも物差しを使うことの例なのでしょうか?」

塩津:その通りだと思います。なんでもいいのです。もはやプロ意識とは離れるけれど、僕の友達なんて「能ってエヴァンゲリオンだよね!!」とかいう人もいますよ(笑)僕は詳しく知らないのですが、このアニメも見ている人によって違う答えが出てくる作品みたいですね。だから、どういう形で鑑賞してもいいよということ。能を観るということは、極論を言えば自分を投影して鑑賞する、「自分探し」かもしれませんね。能を観て、「あ、自分でこんなふうに感じるのか、考えるのか。」ということに気付き、「自分で実はこんなやつなんじゃないのか?」ということのハッとなるということもあると思います。

―「これは能を鑑賞するだけでなく、答えのないものにぶつかった時の対応にも言い換えられるものかと思うのですが、どうでしょうか?

塩津:そうかもしれませんね。自分の出会ったことのない世界に触れた時、自分でその価値を感じることができる「物差し」を持っているかどうか。不確定な未来とぶつかった際にどう反応し、どう生きるかと似ていると思います。

後編に続く

(記事作成:松村莉奈   記事編集: 田中嘉 )

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